私の青春時代の読書

校  長     野 村 直 正

 今から40年も前になるが、私が大学の文学部に入学したころ、学生運動が最も激しかった。そのため、大学の入学試験も大学では行えず、学部ごとに試験会場が違った。文学部の試験は近畿予備校という京都御所の西にある予備校で行われた。火炎瓶が投げ込まれる恐れがあるということで機動隊に守られながら受験した。入学式も開会が宣言されて、10分後に20人位のヘルメットをかぶった学生が乱入し、式場は騒然となり、まもなく閉会が宣言された。その後、大学は学生に占拠され、出入り口にはバリケードが築かれ、無期限のストライキに突入した。
 このような状況で、時たまクラスで討論会が行われる以外は大学の授業がないために、下宿で一日を過ごすこととなった。一日24時間が全て自分の時間であった。
 朝起きても、近くの食堂が開かないので、起きるのが次第に昼近くになっていった。朝食兼昼食を食べ、下宿で読書し、夕方に晩飯を食べ、下宿でまた読書したり、友人と議論したりして、夜中に腹が空くと電熱器でインスタントラーメンを作って食べていた。
 文学部であるから、当然本を読んでいる者が多かった。しかし、東京や大阪などの都会の出身者の読書量とは比較にならなかった。彼らは既に高校時代にサルトルやドストエフスキーといった本を読んでいて、自分なりの考えを持っていた。
 文化的なコンプレックスもあったが、それ以上にどのように生きていったらいいのかということについて自分なりの結論を出そうとして毎日読書に明け暮れた。一日に夏目漱石の小説1冊のペースで読んでいた。次第に時間の観念も消えていき、朝昼晩といった区別もつかなくなった。
 そのころ、一番読んだのはサルトルやドストエフスキーであり、日本では漱石や戦後文学であった。日本の文学のなかで、明治と戦後の時期が、一番どう生きるかが問われた時代であった。そのためか、読書もその時代のものに惹かれるようになっていった。
 高校時代にドストエフスキーの『罪と罰』を読んで、こんな世界は自分には無縁と感じていたが、大学生活を送るうちに「この世には何一つ確定しているものなどなく、何事も起こりうる」という感想を抱くに至った。
 今、振り返ってみると、余裕のない、追い立てられた読書をしていたことになるが、これだけ真剣に読書できたのはこの時期だけであった。「今、ここにこうしている自分」を強烈に意識し始めたのもこの時期であった。何にもしばられず純粋に考えることができた時代として今となっては懐かしいし、手当たり次第に乱読したことで多少本について自分なりの考えを持つことができたが、もう少し余裕を持って読書したら、今とはまた違った生活を送ることになっていたに違いない。
 青春時代は豊かな可能性に充ちていて、この時期自分がどう生きるかの方向が定まっていく。現実の生活だけでは視野は広がらない。是非この時期に読書をしてほしい。精神の広さと深さを感じることができるはずである。